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檜山安東氏城館跡(ひやまあんどうしじょうかんあと)は、秋田県能代市の檜山集落の東側丘陵にあった山城である。檜山城跡と、その近くにある大館跡、茶臼館跡、国清寺跡とあわせて、国の史跡に指定されている。
檜山城は、能代市南東部に位置し、米代川の支流檜山川南の標高147m、周囲との比高128mの霧山にある。所在地の名をとり「霧山城」、あるいは「堀ノ内城」ともいわれる。東西1,500m、南北900mの大規模な山城であり、西方には羽州街道が縦走する。
霧山およびその山麓の馬蹄形地形を利用して構築され、堀切や段築を用いて要害としている。城の中核である本丸、二の丸、三の丸は南側の最頂部に位置する。北側の緩斜面にも多数の郭(曲輪)や腰郭があり、享保13年(1728年)および天保2年(1831年)の絵図には本宮堂、鉄砲場、星場など多数の施設が記載されている。本丸以下の南側とこれら北側緩斜面の間の尾根には櫓跡がある。本丸の北東約1,250m地点に安東家の菩提寺国清寺があり、西北西700m地点には霧山天神宮、その沢をはさんだ南側に多賀谷氏(後述)の菩提寺多宝院がある。さらに、霧山天神宮と多宝院にはさまれた舌状台地(沢をはさんで天神宮側)には安東氏時代の御用場跡があったと推定される。
なお、古城地区には「館神」、「御料場」、「古寺」、赤館地区には「鉄砲場」、「背中あぶり」という地名が今も残っている。
1432年(永享4年)、安藤康季が修築したとの記録もあるが、一般的には1456年(康正2年)、「河北千町」を領していた葛西秀清を安東政季・安東忠季父子が滅ぼして安東氏がここに本拠を構え、政季が築城を開始して忠季が1495年(明応4年)頃に修築を完了したとされる。以後、尋季、舜季、愛季、実季まで5代にわたり檜山安東氏の居城となった。1589年(天正17年)には安東氏の内紛により、この城で大規模な籠城戦が行われている(湊合戦)。
1598年(慶長3年)、実季は土崎(秋田市)の湊城に移り、檜山城は大高相模守康澄の代官地となった。
関ヶ原合戦後の1602年(慶長7年)、秋田氏と改めた安東氏は常陸宍戸に転封となり、かわりに佐竹氏が秋田に国替えとなった。佐竹氏は小場義成を檜山城の城代とするが、1610年(慶長15年)には小場義成を大館(現在の大館市)にうつし、かわりに多賀谷氏が城代となり檜山1万石を受けた。多賀谷氏は大規模な城の改築を行ったものの、江戸幕府の一国一城令により、1620年(元和6年)、檜山城は廃城となった。しかし、多賀谷氏は代々この地にとどまり、檜山は廃藩置県までこの地方の政治や文化の中心となった。